2011/04/09

「革命か反抗か」からの触発

正義の名の下の暴力が許されるのだろうか?

目的が正義だからと、暴力が正当化されていいのか?





この疑問は多くの人が心の中に存在していると思う。

僕がこの事を疑問に思ったのは9.11の事件後のアメリカ軍によるアフガニスタンへの攻撃が行われた時だった。そのとき高校生だった僕は、アメリカ軍の爆撃によりテロリストか民間人か分からない人たちがほぼ無差別に殺されていく映像を見た時に、非常に違和感を感じた。確かに9.11はショッキングな事件だったし、ある程度の報復はしかるべきとその当時は思っていました。
だが、日々、アメリカ軍による誤爆の映像、一般市民を巻き込んだ爆撃の映像を垂れ流しているのに関わらずメディアやアメリカ市民からモラルに対する批判が出なかったのが不思議であった。いくら、報復とはいえやり過ぎだ。人間的な感性を持っているならば自然にそう思う筈だ。


歴史というのは勝者の描いた話である事は皆さん知っていると思う。歴史の中では戦争に勝つ者が善であり、敗者は悪である。

アメリカと日本との戦争では、アメリカが勝者であって日本が敗者。敗者である日本はアメリカが行なった非人道的行為に対して何一つ問う事は出来なかった。

本来、戦争とは兵士と兵士が殺し合う。その兵士同士の戦いで軍事力、国の力を決めるものだ。そして、双方のどちらかが、負けを認め降伏したとき戦争が終わる。

しかし、アメリカは何時もタブーを犯す。アメリカは常に戦争の中で一般市民を殺戮するのだ。ベドナム戦争の時は兵士がゲリラ化し、兵士と市民の見分けがつかず、無差別に殺した経緯があった。日本の場合そのような事情も無く、明らかに市民に対して空襲をしている。そして、惨い事に二発の核兵器を多くの女性、子供しか居ないのにも関わらず広島と長崎に投下したのである。



これらが正義だからといって正当化されるべきことでしょうか?

戦後の日本教育では戦争責任は日本にあると私たちは教わってきました。確かにそうです。日本にも責任はあります。しかし、アメリカの犯した戦争犯罪に対して戦時国際法違反への追求をしては不味い風潮はいけない。戦争に負け敗者になったからと言って間違っている事に対して、口を噤むべきではないのです。そして、戦争責任についても敗者だけが負うべきモノでなく戦争に関わったもの全てが負うべきです。人間の歴史上の負の遺産なのですから。

残念ながら善と悪というのは勝者により決められる。今のままではアメリカのやり方が善であり、資本と力が支配するこの世界では変えられぬ事実であります。


本質的に正しい事に目を背け、間違った事に対して口を噤む。この事が唯一、国家間、一般社会においても上手く生きる処世術となっている。この事を多くの子供が見て育ち大人に成っていっている事を私たちは意識せねば成りません。

そのような子供が大人に成ったらどうなるか?共同体の暴走を止める事が出来ずに、また大きな戦争を起こす可能性があります。

戦争においては勝者も敗者も同等の責任がある。正義か悪かという二元論に話をすり替えずに根本的な悪である暴力を如何に無くすか、其れに向かって人類は歩みを進めるべきなのです。






これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル)

という書籍が多く売れています。内容は別にして正義について考える契機がアメリカ国民にも与えられた事は非常に良い事です。



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