2011/03/10

人間と動物の違い

顔にピッと冷たい感触がした。何だろうと空を見上げると、青空なのに雨が降り始めてきた。落日の光に照らされ、雨はまるで金の絹糸の様に降り注いでくる。幾千もの金色の線の中、下校途中の学生達が小走りで駆け抜けてゆく。

しばらくすると晴れ間の雨は止み、遅れて黒々とした雨雲が姿を現した。夕日に照らされて、その雲は黒を増しながら、夕闇と同化しているようだった。

その夕日の中、人々は家路へと向かう。子供も大人も長い影を引きずりながら歩いている。
私もその様に歩いていた。歩いていると、後ろから小さい影と背の曲がった少し大きな影が近づいてきた。その影達は会話していた。

「おばあちゃん、晴れているのに雨降ってたね。」

「うん、そうだね。こういう晴れてるときに雨が降ると、狐さんがお嫁に行くのだよ。竹林の中で結婚式をするんだ。」

「狐さんが、お嫁に行くの?」

「そうだよ。狐の嫁入り。」




太古には、人間と動物の間には畏れがあった。人間の世界と動物の世界では今では考えられないほどの溝がありました。多くの動物達は森や海の民であり、人間はその動物達と一定の距離を保っていました。

動物の世界は人間に理解できないもう一つの独立した世界としての認識があったのです。自然科学の発展していない頃は当然、多くの事が謎であり、多くの自然現象の謎を動物の世界の事に結びつけて考えられてきました。狐の嫁入りもその典型であり、天気であるのに雨が降ると言う謎を、狐が、自分たちの姿を見られまいと雨を降らすのだろうと言う解釈をし、謎に対しての答えとして考えられてきた訳である。こういった民話や伝承の中には太古の人間の自然観、世界観が表現されていたのだ。


一方、人間は人間自身の存在についても一つの謎でした。人間は人間を理解しようと幾千もの間、繰り返し問い続けてきました。歴史を経る事でその問いは体系化され、神話や聖書などの国によって千差万別あるが物語として体系化され、問いに対してある一定の答を提示していた。

体系化された物語には多くの場合、人間は特別な存在として扱われる事が多い。特に聖書では人間は神に似せて作られ、動物、自然を支配する物としてこの世界に生を与えられたとされています。西洋社会では自然科学が優位になるまでこの認識は多くの人の共通認識であり、人間とは特別な存在であった。この認識は人間が傲慢であるとか、自信過剰からくる物ではない。人間が人間を何であるか?その問いの答えとして非常に分かりやすい物であった。そして、動物と人間との差異への疑問の答えとしても非常に理解のしやすい物であって、人間が他の生物の違いを納得するのに非常に自然に人間は選ばれし物であるからと言う答えは導きだされたのだろう。長い間、この認識は続く事になる。




だか、この現代では自然科学が発達し、神話、宗教などの人間が生きる指針、生きる上で生じる問いの答として信頼していたものが、一挙にして揺らぐ事になった。自然科学の発達は多くの信じられていた事の整合性の無さを証明してしまった。聖書に書かれ地球誕生の推定年数は間違っている事、ダーウィンは、人間は猿から進化したと提示した。自然科学は人間の誕生や生物がこの地球に存在している事の偶然性を証明してしまったのだ。それはある意味では人間は特別ではない事の証明でもあり、人間は必然的に神に選ばれ誕生した事の否定である。この時、神は死んだのでした。

自然科学により人間の誕生は偶然であり、他の動物と変わらない事が明らかにされてゆく中で、生物学的には人間も動物も変わら無い事はまぁ認めよう。でも、人間には魂があり、心があるのだと。最後の砦の様に発言する様になった。だが、その最後の砦にもトドメを刺す人物が出現する。それはフロイトである。彼が言うには、人間の心理は多くの性衝動、或は欲望と言う事が多く作用していることを提示している。しかも、彼は医者であり、彼の理論により患者が治る。その事によりその心理、心、魂と言われる人間の最後の砦に動物性が多く含まれている事を事実として証明したのである。


長々と書いたこの文章、これらの事すべては、今の私たちには何一つ体現したものは無い。私が生まれたときには既にフロイトは死んでいてフロイトの心理学は当然の様にあり、学校ではダーウィンの進化論を教わり、人間は猿から進化し、動物の中の哺乳類でヒト科の人である事は当然であるかの様に育ったのだ。かと言って、太古の頃の様に人間と動物が平等であり、他の動物世界に畏れを持っているか、と言うとそんな物も持ち合わせていないのだ。動物世界も人間世界も同一であり、そもそもそこに謎など無いから畏れる気持ちなどありはしない。自然科学は多くの事を明らかにした。明らかにしたがその中には何もなかったという空虚感だけを残した。

ヒトと猿の遺伝子は98.9%同じであり、哺乳類と言う分類でも実は90%同じと言う数字が出ている。その数字を提示された時、最初は関心を示すし、心揺さぶられる物がある。しかし、その刹那な感動を過ぎれば事実は事実として残るが、私たちの興味ある存在ではなくなり意識もされなくなるのだ。人は謎であればあるほど、それに興味を示す物である。そし      て、想像するのだ。何故なんだろうと?

かつて の人間と動物世界の差異は人に多くの事を想像させた。人々は個々に、世界に対しての見方を想像していた。現代では、私たちはまず最初に物事に対して観るときにベースが必ず存在しているのだ。そのベースは予備知識と言えようか、実際に見た事がなくともその事については知っている。そのベースは我々から想像性と感動を奪った。あらゆる事は知られている事であり説明がつく問題なのだ。

私たちはあらゆる事を知って進化し、知を幾年もの間で積み重ね、世代が変わっても積み重なった上で再スタートしてきた。その知の層が他の生物を圧倒し進化してきた所以である。

だが、私たち人間と言う存在は動物である。この進化のスピードは生物学的発展とはいっさい釣り合っていないのではないか?

猿と毛三本ほどの違いである人間は拡張し続ける。もはや、この地球では飽き足らず、宇宙へまでも拡張するのだ。

人間と動物の違いは自分自身が何であるか、あらゆる知識に埋もれ分からなくなった状態の動物である。

そしてまた、明日も人間はなんであるか?これからも問い続けるのだろう。

asaji photo office

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