2011/03/30

 「ラ・ジュテ」 クリス・マルケル

第三次世界大戦後の未来。核戦争により地球は核で汚染され、人間は地下生活を余儀なくされた。その未来である男が過去へとタイムトラベルする。いわゆる、SFである。

この作品との出会いは大学生の時だった。友達に紹介され、大学の映像資料で見たのが最初だった。友達はおもしろいSF映画だからとテンション高めに薦めてきたのだが、あいにく僕はSFは好きではなく、あまり興味はなかった。でも、感想を聞かせてと友達に言われていたので嫌々見たのでした。




映像資料室で見た瞬間に友達に感謝しました。そして僕は、「ヤバい、ヤバい」と他の人の目も気に留めず連呼していました。

まず衝撃を受けたのが全編スチールカットであった事です。僕は写真をやっている事も有りかなりの衝撃でした。1962年にこんな前衛的な事をしている事に悔しさすら覚えました。監督のクリス・マルケルは写真家でもあるので一カットのクオリティが非常に高いのです。


一コマが約2、3秒間隔で進行していく。よくクレイアートのアニメショーンが写真をコマ送りで、映像にしていますが、それとは違っていて一コマが長いのです。激しい動的表現ではありません。

それでは、パソコンの中で写真を観るときスライドショーみたいな物かと思われてしまうかもしれませんが、それとも違うのです。
その当時、写真をスライドショーの様にするのにもパソコンは当然ありませんでした。だからプリントして完成された焼きの写真をまた、映像のカメラで撮影してやったうえで映像化していました。
その手法だと、映写機の60分の1秒の回転で送られるフィルムの揺らめきが写真に投影されます。その揺らめき、ブレが人の写真の時に顕著ですが、写真が生きているかの様に見せるのです。写真と映像との中間という何とも言えない世界観があります。


映画を通してあるのは記憶というテーマであり、映画の多くの部分は追憶の中で展開されていきます。この記憶というテーマが観る物にノスタルジックな想いにさせてくれます。SFでありながらノスタルジックという不思議な映画です。




29分という短さなのでyoutubeみれてしまいます。

2011/03/24

ルネ・マグリット / Rene Magritte

初めてマグリットを見たのはもう10年以上前になる。小学校低学年ぐらいだった

(陵辱)

冬のある日、学校が早く終わり、何時も遊ぶ友達は風邪を引いていて暇だった。親も留守でボーっとしていた。あまりにも暇だったのか、何気なく普段見ない本棚をあさり始めた。そして、マグリットに出会った。
無作為に広げて最初に飛び込んできたのが「陵辱」と言う作品だった。小学生の私は何か見てはいけない物の様に感じた。とても不思議な感覚だ。どう見ても顔なのに見てはいけないもの。顔なのに恥ずかしい。これは何なのだ?という気持ちが揺さぶられる感じがした。今思うとこれがアートの衝撃と言うのかなぁと思う。

(裸体)




(鏡)


(恋人達)




(光の帝国)

一体、何がアートの衝撃なのだろうか?

やはり、このアンビヴァレントなこと。相反する物の同居だろうか。所謂ディペイズマン。人間自身もまたアンヴァレントな存在であり、マグリットのアートの衝撃は人間の根源的な所へと訴求だろう。

(これはパイプではない)

シュルレアリスム自体が意識の介在出来ないむき出しの人間の表現であった。マグリットもシュルレアリスムの担い手の一人として歴史に名を残している。歴史的に見ても人間の根源性への訴求はあながち間違いではない。

マグリットはしかしながら、他のシュルレアリストとは異質である。他が無意識、偶然性、夢だとすると、マグリットは思考への呼びかけと神秘だ。

(これはパイプではない)は思考への呼びかける。一体これは何だろう?そして、その謎が解けたときコペルニクス的転回とでも言うべき新しい世界への扉を開いたとき神秘へとつないでいる。






asaji photo office

2011/03/21

岡本太郎という人間

今年は岡本太郎生誕100周年を迎えて書店で書籍や作品集を最近よく見かける。言うまでもないが、「芸術は爆発だ。」とか大阪の万博公園にある太陽の塔でお馴染みの人である。



実は彼はテレビとかでは、変なおじさんみたいなイメージを植え付けられてしまったが、非常に志しの高い芸術家でありました。

nhkで岡本太郎のドラマをやっているらしい。とても彼の人生は数時間のドラマに収まる訳は無い。と僕は思ってしまう。彼の人生はとても波乱に満ちていたし、皆は天才と呼ぶが、彼の書籍を読むと、孤高の天才と呼びたくなる。非常に孤独で孤高な天才。

岡本太郎がパリへと辿り着いた時、パリでは19世紀の芸術から20世紀の芸術への転換期であり、価値の転換期であった。所謂芸術でのコペルニクス的転回が行われた。彼はその転換期の真っただ中におり、ダダ、抽象芸術運動に参加していました。彼の交遊はピカソ、バタイユ、ブルトン、ルオー、マグリットなど挙げれば切りが有りませんが、今の芸術を語るときに重要な人たちばかりですが、運動やカフェで議論などしていたようです。

経歴を見ると華々しい様に思われる方が多い様に思いますが、順風満帆ではないです。貧乏とかそんなレベルの低い苦労では有りません。非常にレベルの高い悩みで有りました。

彼は作品を作りたいと言う強い意志を持っていながらも10年以上も一枚も絵を描く事が出来ませんでした。27〜37歳までの途中に戦争も有ったみたいですが一枚も描く事が出来なかった。それは非常に苦しい状態です。何かモノを作る人は常に壁にブチ当たります。そしてその壁をぶち壊すのに凄く苦しみます。これはモノを作る人にしか分からない苦しみです。それを10年もひたすらに壁をぶち壊そうと言う挑みには唖然とするばかりです。

その10年もの間、彼は比較人類学、民俗学の本を熱心に読んだりしていたみたいです。そして、こんな事をして果たして将来に役に立つのか、立派な大人なり飯を食う事が出来るのか、そう言った不安とも葛藤する事も有ったみたいでした。でも自分は作品を作りたいけど、作れない事と闘い続ける事しか出来ない。闘いを続けながらも、知の好奇心の赴くままに書籍を読みあさる生活を続けたそうです。

この10年の停滞期ともいえるこの時期が彼の作品に大きな影響を与えた事は言うまでもない事だと思います。民俗学への興味が日本の土偶への出会いであったで有ろうし、比較人類学で様々な文化を比較しながら、自分自身に宿る太古からの日本人性の発見にも繋がっていったのだろう。




しかし、日本へ来てからは、日本の性質が彼の才能を伸ばすのに邪魔をした様に思います。今の日本も昔とあまり変わりませんが、職人的な芸術家が多く、それらが派閥を作り、本当の芸術家を阻害している。岡村太郎自身の言葉でもありますが、「師匠と弟子の関係のいやったらしさ。」こういった言葉から色々と読み取れますが、芸術界を取り巻く人災とも言えるようなものに阻まれていたのだろう。

岡本太郎は幾つもの障害と真っ正面で闘い、人生で対極主義を貫いた人間だとおもう。





「今日の芸術」を読むならば、現在の問題を論じているかのような心持ちになります。真っ直ぐ芸術に向かっていく人にとっては時代に関係なく心通じるものが有ります。何時までも読み継がれるべき名著です。



asaji photo office

2011/03/20

原発について vol.2

原子力保安員の会見を見た事がありますか?

ustreamやニコニコ動画では大手メディア打ち切ってしまう会見をフルで流しています。


http://www.nicovideo.jp/

ustreamではフリージャーナリスト岩上安身氏のページにて東電、保安員の会見をライブで配信しています。

ニコニコ動画は本来は会員登録せずには見れないのですが、今回の震災情報であるとか、会見の模様を生中継しており、会員登録をせずに見る事が出来ます。



中継で全てを見るのは意味が有ると思います。

テレビでは、会見が途中で切れたり、編集して放送されるので、報道されていない事が多く有ります。それは、大手メディアが内容を短絡的に断定して報道すると言うテレビの性質に基づいていますし、今回は東京電力というテレビの大スポンサーでもあるので報道メディアが如何に力学によって動かされているか、フリージャーナリスト、雑誌、大手メディアなどの所属の違いによって、如何に質問が質が変わるか。それを見るのにもフルで記者会見を見るのは重要だと思います。


大手メディアでは福島原発は小康状態と伝えられていますが、会見を見る限りはとてもそのような状態とは思えません。

原発について

今、情報に格差が確実にある。政府が盛んに「直ちに健康被害が出るレベルではない。」と発言しています。この政府の発言は国民に誤解を与え、非常に危険であります。

プラスの情報、マイナスの情報ともに公開されている状態が、情報公開されている状態です。今では中国と同じ様に情報操作がされている状態です。真実を隠す事はパニック防止には、ならない。真実をちゃんと伝える事で初めて適切に対処出来るのですから。今では、何も手を尽くさずに被害が広がる可能性があります。


http://takedanet.com/ こちらは武田邦彦教授のサイトです。非常に重要な事が書いてあります。緊急情報1から読まれる事をお薦めします。


http://www.ustream.tv/recorded/13373990 田中優 福井県大学講師 子供、胎児、妊婦さんに対する健康被害に対する説明が一部有ります。動画です。



これらの情報が間違いであった。と言って笑える時が来れば良いが、これらの事を知らずに被害を受け、一年後、十年後に被害が有るとしたら、これらの情報を知っていて情報を発信しなかった事を私は後悔する事になるでしょう。自分が狼少年になれる事を希望して。

2011/03/15

人間復興

今、日本の危機である。

だが、この震災前にも我々は既に危機を迎えていた事を知らなければならない。

花田清輝氏の言葉を借りるとするならば「家畜化された野獣」とも表現すべき状態に日本人は陥っている。

何の主体性も無く暴走する、ただの野獣。全てが金銭欲、性欲、食欲の欲望に塗れ生活をしている。だが、その野獣性はシステム化されている。システムの中で弱肉強食を繰り返し、欲望を追求する。

今の現状を見れば理解できる筈だ。被災地に食料も送らずに食料を買いだめしている光景。結局、口で被災地が心配だとか言うのにも関わらず、自分たちの事さえ良ければ他はどうでも良いと言う考えが蔓延っている。この光景こそが日本人が家畜化された野獣である証拠ではありませんか。


欲望のカオスのごとく増殖してきた日本の都市。その欲望の光とも言う電力が今、抑制されている。


震災後、月曜日になり何時もの日常を遅れると思って職場へ向かう人たち。この多く人たちは関東が福島の原発にどれだけ支えられていたか全く想像もした事も無かったのだろう。それを知っていれば、少し想像するなり、何時もの日常が過ごせる訳が無い事を分かる筈である。


皆さん、経済の動向が気になるのではないでしょうか?
しかし、経済が何のために大事なのでしょうか?被災地のためですか?自分たちの家族のためですか?お金のためですか?食べ物を食べるためですか?

きっと、この疑問を呈した私に対して、ほぼ全ての人は愚か者だと断罪するでしょう。しかし、私は全ての人が否と言えども私はこれらの事に対して疑問を投げかける。

恐らく、これらの疑問に親切に答える人が居るならば、全てのためと言うでしょう。それはきっと、総合して言うならば、幸福のためとも考えられるでしょう。

それでは、日本人の考える幸福とは何でしょうか?

仕事が順調。家族が元気である事。食に困らない何不自由のない生活などだろう。

だが、その幸福観には些か、矛盾がある。皆が、その幸福に向かって進んでいってもそれが出来るのは全ての人ではない。一部の人がその幸福感を抱いたころに、隣人は血を流している可能性のある社会に我々は住んでいる。多くの人に共有されている幸福感は虚構に過ぎないのだ。今の我々の従っている資本主義システムでは誰かが裕福になれば、誰かが裕福ではなくなる。裕福さ、お金、それらを基準に幸福を考えるならば我々は、本質的に何時までも幸福になれる筈は無いのだ。

今、この日本の危機にあって、当然株価は下がる。当然だ、日本の投資家だって海外で災害や事件があれば、それに伴って売ったり、買ったりする訳だ。そんな損得や数字の上げ下げはお互い様である。それがマネーゲームだ。そんな事に一喜一憂してみても失った物は何も帰ってこないのだ。

失った物はまた作れば良いし、日本にはすばらしい技術力も頭脳もある訳だ。物質的復興は時間はかかるがなされると思う。だが、日本は何を目的に進んでゆくのか、何に価値を持つのかを明らかにしてゆかねば、金にまみれた腐食した国でしかない。

目的や価値は個人一人一人に立返り考えるべき問題である。今の腐った政治家を選んだ事。或は腐った政治家しか居ない今の現状を作ったのは我々国民一人一人の責任である。あまりにも金銭欲ばかりに目が眩み行動した結果が今の低レベルな状態である。今この国には理想、理念が必要だ。

理想、理念の崇高な次元な話に至る前にまず、日本人には人間の復興が必要に思う。はっきり言って現状は人間ではないと思う。家畜である。しかも、ベルトコンベアに乗った欲深い家畜である。


何のために生きるのか深く考えず、小、中、高、大学と流れるままに学校へ行く。そして、それ社会人だ。就職しろ!と会社へと入る。会社へ入るなり、会社のルールを徹底的に頭へ叩き込まれ洗脳される。そして、結婚をして、家族を作り、たまの休日に旅行へ行ったり、ゴルフをしたり、モルモットみたいに決まった所をランニングする。こんな事をして年を取り、仕事から引退し、死んでゆく。こんな道筋があり、それに乗る大多数の人が居る。そして、気づかないで、そのレールに乗る人も居る。また、人にそれを押し付けられてレールに乗る人が居る。

40歳までの引きこもりが100万人規模で居る事が示唆れている。かなりの人数である。あまり報道されないことだが、大旨事実であるらしい。社会にとって、この引きこもりは社会秩序を乱す者として恐怖の対象としてみられている。だから報道もされないし、それに家から出てこないので、ある意味では居ないも同然である。ただ事件が起きたりすると、引っ張りだされる存在である。
恐怖の対象として見られている引きこもりだが、引きこもりから見れば、そうでない人が怖くて仕方が無い。引きこもりの要因としてはレールに順応出来なかった事が大きい。そして、レールを踏み外した者に対して社会が受け入れない。そして、そこから出られなくなる。そして、家族はなるべく他者に知られたくなく存在を隠す。そして、社会から抹殺される。

こんな事が起こるのは、生き方のマニュアルが有るからだ。そして、そのマニュアルに縛られすぎている国民が日本人である。本来、生きる事にマニュアルなど有る筈は無い。例えば、私が噺家になると言えば、来るアドバイスと言えば弟子入りして何年云々と知識を伝えてくれるだろうが、噺家になるのにはそれが一番近道かも知れないが、それだけではない。あまりにも簡単な過ごし方ばかりに注目し過ぎだ。その人がその生き方を選んだならばその選んだ道がより充実しているにも拘らず、そんな事は大変だからとか、親が悲しむとか色々な事を言って自分の仲間を増やして安心しようとしたり、諦めさせようと足を引っ張ろうとするのである。こんな事何の意味も無い事に気付くべきだ。このような大きな震災が起きたとき、マニュアルが役に立つと思うのか?人間も人生も自然の一部である事を知らなければならない。不確定な要素に満ちあふれており、人生は自ら切り開くものである。

社会や会社で上手く、当たり障り無く生きてゆく術。そんな小手先な事ばかりである。本質的に生きる事は何か問うてはどうだろうか?小手先で生きてみても、人間としての理想であるとか、理念が私たちの心の底から体現したモノとして実感出来る訳も無いし、本当に生きてみないと本当にこの国に何が必要なのか?それが何時までも分からない。何時までも海外から輸入された国家観、憲法、民主主義では私たち日本人に根付いた者にならない。私たち自身から創出された国家観、憲法、民主主義でなければ、この国は皮は良いが中身は腐った国でしかなくなってしまう。今、この震災から復興の時にこれらの事も試されているのではないか、私はそう思う。

2011/03/10

人間と動物の違い

顔にピッと冷たい感触がした。何だろうと空を見上げると、青空なのに雨が降り始めてきた。落日の光に照らされ、雨はまるで金の絹糸の様に降り注いでくる。幾千もの金色の線の中、下校途中の学生達が小走りで駆け抜けてゆく。

しばらくすると晴れ間の雨は止み、遅れて黒々とした雨雲が姿を現した。夕日に照らされて、その雲は黒を増しながら、夕闇と同化しているようだった。

その夕日の中、人々は家路へと向かう。子供も大人も長い影を引きずりながら歩いている。
私もその様に歩いていた。歩いていると、後ろから小さい影と背の曲がった少し大きな影が近づいてきた。その影達は会話していた。

「おばあちゃん、晴れているのに雨降ってたね。」

「うん、そうだね。こういう晴れてるときに雨が降ると、狐さんがお嫁に行くのだよ。竹林の中で結婚式をするんだ。」

「狐さんが、お嫁に行くの?」

「そうだよ。狐の嫁入り。」




太古には、人間と動物の間には畏れがあった。人間の世界と動物の世界では今では考えられないほどの溝がありました。多くの動物達は森や海の民であり、人間はその動物達と一定の距離を保っていました。

動物の世界は人間に理解できないもう一つの独立した世界としての認識があったのです。自然科学の発展していない頃は当然、多くの事が謎であり、多くの自然現象の謎を動物の世界の事に結びつけて考えられてきました。狐の嫁入りもその典型であり、天気であるのに雨が降ると言う謎を、狐が、自分たちの姿を見られまいと雨を降らすのだろうと言う解釈をし、謎に対しての答えとして考えられてきた訳である。こういった民話や伝承の中には太古の人間の自然観、世界観が表現されていたのだ。


一方、人間は人間自身の存在についても一つの謎でした。人間は人間を理解しようと幾千もの間、繰り返し問い続けてきました。歴史を経る事でその問いは体系化され、神話や聖書などの国によって千差万別あるが物語として体系化され、問いに対してある一定の答を提示していた。

体系化された物語には多くの場合、人間は特別な存在として扱われる事が多い。特に聖書では人間は神に似せて作られ、動物、自然を支配する物としてこの世界に生を与えられたとされています。西洋社会では自然科学が優位になるまでこの認識は多くの人の共通認識であり、人間とは特別な存在であった。この認識は人間が傲慢であるとか、自信過剰からくる物ではない。人間が人間を何であるか?その問いの答えとして非常に分かりやすい物であった。そして、動物と人間との差異への疑問の答えとしても非常に理解のしやすい物であって、人間が他の生物の違いを納得するのに非常に自然に人間は選ばれし物であるからと言う答えは導きだされたのだろう。長い間、この認識は続く事になる。




だか、この現代では自然科学が発達し、神話、宗教などの人間が生きる指針、生きる上で生じる問いの答として信頼していたものが、一挙にして揺らぐ事になった。自然科学の発達は多くの信じられていた事の整合性の無さを証明してしまった。聖書に書かれ地球誕生の推定年数は間違っている事、ダーウィンは、人間は猿から進化したと提示した。自然科学は人間の誕生や生物がこの地球に存在している事の偶然性を証明してしまったのだ。それはある意味では人間は特別ではない事の証明でもあり、人間は必然的に神に選ばれ誕生した事の否定である。この時、神は死んだのでした。

自然科学により人間の誕生は偶然であり、他の動物と変わらない事が明らかにされてゆく中で、生物学的には人間も動物も変わら無い事はまぁ認めよう。でも、人間には魂があり、心があるのだと。最後の砦の様に発言する様になった。だが、その最後の砦にもトドメを刺す人物が出現する。それはフロイトである。彼が言うには、人間の心理は多くの性衝動、或は欲望と言う事が多く作用していることを提示している。しかも、彼は医者であり、彼の理論により患者が治る。その事によりその心理、心、魂と言われる人間の最後の砦に動物性が多く含まれている事を事実として証明したのである。


長々と書いたこの文章、これらの事すべては、今の私たちには何一つ体現したものは無い。私が生まれたときには既にフロイトは死んでいてフロイトの心理学は当然の様にあり、学校ではダーウィンの進化論を教わり、人間は猿から進化し、動物の中の哺乳類でヒト科の人である事は当然であるかの様に育ったのだ。かと言って、太古の頃の様に人間と動物が平等であり、他の動物世界に畏れを持っているか、と言うとそんな物も持ち合わせていないのだ。動物世界も人間世界も同一であり、そもそもそこに謎など無いから畏れる気持ちなどありはしない。自然科学は多くの事を明らかにした。明らかにしたがその中には何もなかったという空虚感だけを残した。

ヒトと猿の遺伝子は98.9%同じであり、哺乳類と言う分類でも実は90%同じと言う数字が出ている。その数字を提示された時、最初は関心を示すし、心揺さぶられる物がある。しかし、その刹那な感動を過ぎれば事実は事実として残るが、私たちの興味ある存在ではなくなり意識もされなくなるのだ。人は謎であればあるほど、それに興味を示す物である。そし      て、想像するのだ。何故なんだろうと?

かつて の人間と動物世界の差異は人に多くの事を想像させた。人々は個々に、世界に対しての見方を想像していた。現代では、私たちはまず最初に物事に対して観るときにベースが必ず存在しているのだ。そのベースは予備知識と言えようか、実際に見た事がなくともその事については知っている。そのベースは我々から想像性と感動を奪った。あらゆる事は知られている事であり説明がつく問題なのだ。

私たちはあらゆる事を知って進化し、知を幾年もの間で積み重ね、世代が変わっても積み重なった上で再スタートしてきた。その知の層が他の生物を圧倒し進化してきた所以である。

だが、私たち人間と言う存在は動物である。この進化のスピードは生物学的発展とはいっさい釣り合っていないのではないか?

猿と毛三本ほどの違いである人間は拡張し続ける。もはや、この地球では飽き足らず、宇宙へまでも拡張するのだ。

人間と動物の違いは自分自身が何であるか、あらゆる知識に埋もれ分からなくなった状態の動物である。

そしてまた、明日も人間はなんであるか?これからも問い続けるのだろう。

asaji photo office

2011/03/04

大学三年生バスを横転さす。



浮浪者、失業者、ニート、引きこもり、ワーキングプア。多くの不安を煽る言葉の一部である。

メディアにより喧しく何のリテラシーも無く垂れ流された情報である。現在、あまりにも情報が過多になっている。というよりか、情報を使う人が心得を持たずに情報と付き合い、情報に溺れていると言った状況だろう。

ある人が予期不安になったとして、その不安の赴くままに情報を調べれば当然、キーワードにかかる情報が次々と検出され、より不安要素が増え予期不安はより増幅する事になる。今の環境は予期不安を助長しやすい構造になっているのだ。しかも、マイナス情報は心理学的にも伝達が早く、記憶に定着しやすい。今の環境は誰もが予期不安状態に陥る可能性がある。その予防のためには情報のリテラシーの確立が必要であると思う今日この頃です。

2月26日0時過ぎ山陽自動車道、バス横転事故について何故か頭から離れなく、色々考えていました。
事故で被害に遭われた方は大変お気の毒に思いますし、犯人に如何なる事情が有ろうとも今回の暴挙が許されるものではない事として私は考えている者である。その事を表明した上で考えを書いていこうと思います。

頭から離れなく色々、考えを巡らせたり、新聞やネットでの書き込みを読んでいると書かれているのは大体が、犯人への理解できないと言う発言ばかり目立っています。でも、まぁそれは、当然の事である。少数意見を述べるの難しいし、発見もしにくいからだ。

だが、不思議に思うのは就職活動に苦労した人は少数ではないはずなのにこの事件を発端に社会への不平不満、企業体質の改善への意見であるとか、そう言った発言が少しも観られない事、それがとても不思議である。事実として大学生の自殺数がこの就職難で急増しているデーターも発表されている。それにも関わらず、出てくる発言は、犯人への甘ったれるな、理解できない、頭がおかしいのでは?と言った発言ばかりである。

今の企業風土は変だ。そんな事を思わないのでしょうか?何かと新卒、新卒と新卒ばかり集め長期で社員を育てて結局、洗脳された物言わぬパブロフの犬が欲しいと思っている企業。そんな企業のために命を捨ててしまおうとする青年を見て社会、企業にたいして怒りを感じないのでしょうか?僕は、それがとても不思議です。








2011/03/02

Art vol.2

何かを表現したい。いや、イメージは在る。見えてはいるのだ。具現化すれば良いのだ。

しかし、この作り始めの最初のステップが非常に頭が痛い。材料は無限の様にあり、その無限にある中から具現化しようとするイメージと折り合いを付けなければならないのだ。イメージとの完全一致はあり得ない。イメージの中のテクスチャーは象徴的であるからだ。その象徴を、どの素材に定義付けするか、それがイメージとの折り合いである。

何の問題も無く、スーッとその折り合いが決まり最後の完成まで至る事は間々あるのだが、今回は全く逆で全然決まらない。作っては進んで、立ち止まり、壊す。作っては進んで、立ち止まり、壊す。その繰り返しである。何故だか、全然、納得がいかないのである。
今までの経験上、それはあまりにもイメージに固執しすぎている事に原因がある。だが、今回ばかしは、まだ、妥協点を見つけるのも時期尚早な気がしてならないのだ。
今はどうやら、創造と破壊を繰り返しながら形を探し出すしかなさそうだ。

asaji photo office

「シリアスマン」コーエン兄弟監督作品

先日、ジョエル&イーサン・コーエン監督作「シリアスマン」を観に行ってきた。2010年アカデミー賞作品賞ノミネート作品である。

2009年の作品であるから日本公開はかなり遅い公開だ。そして、コーエン兄弟の作品であるのにミニシアター系での取り扱いしか無い状況を疑問に思っていたが、実際映画を見ると納得である。キリスト教文化、ユダヤ人社会に対する予備知識が無いと全く理解できない映画だと思った。この映画で収益を出すのは難しい。当然、日本はキリスト教人口も多くないし、ユダヤ移民もいないで公開が遅れたのも納得である。

個人的にはとても楽しく拝見しました。元々、家族がキリスト信者でしたので聖書からの隠喩が理解できていたので中々、考えさせられました。この映画の主人公である中年男のラリーは恐らく旧約聖書に出てくるヨブ記に主に出てくるヨブと言う男と重ね合わせている様に思う。この旧約聖書のヨブ記はキリスト教界では中々、解釈に苦慮している逸話である。ヨブ記を読むと神様が鬼畜の所業を成し遂げてくれる話ばかりなので唖然としてしまうのだが、この映画のラリーとヨブは見事にシンクロしてくれます。「シリアスマン」を見る前に


旧約聖書のヨブ記を読まれるか、上の岩波文庫から出版されている本を読まれてから映画を観に行かれると深く理解できる様に思います。

ただ、この映画はキリスト教に理解を深めようであるとか、信者が観て喜ばれるものではない事をお伝えしておきます。どちらかと言えば、映画の構成はキリスト教を皮肉っている視点で作られています。それに、肩に力を入れてみるようなモノでもないと思います。この映画は基本的にはコメディーとして作られています。ブラックジョークやナンセンスな笑いが好きな人はかなり笑える映画になっています。

僕は、かなり爆笑していました。でも、笑い声を出す前に周りの様子を見てみましょう。僕の時は皆、シリアスマンだったのか、誰も笑っていませんでした。ご注意あれ!



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