2011/03/15

人間復興

今、日本の危機である。

だが、この震災前にも我々は既に危機を迎えていた事を知らなければならない。

花田清輝氏の言葉を借りるとするならば「家畜化された野獣」とも表現すべき状態に日本人は陥っている。

何の主体性も無く暴走する、ただの野獣。全てが金銭欲、性欲、食欲の欲望に塗れ生活をしている。だが、その野獣性はシステム化されている。システムの中で弱肉強食を繰り返し、欲望を追求する。

今の現状を見れば理解できる筈だ。被災地に食料も送らずに食料を買いだめしている光景。結局、口で被災地が心配だとか言うのにも関わらず、自分たちの事さえ良ければ他はどうでも良いと言う考えが蔓延っている。この光景こそが日本人が家畜化された野獣である証拠ではありませんか。


欲望のカオスのごとく増殖してきた日本の都市。その欲望の光とも言う電力が今、抑制されている。


震災後、月曜日になり何時もの日常を遅れると思って職場へ向かう人たち。この多く人たちは関東が福島の原発にどれだけ支えられていたか全く想像もした事も無かったのだろう。それを知っていれば、少し想像するなり、何時もの日常が過ごせる訳が無い事を分かる筈である。


皆さん、経済の動向が気になるのではないでしょうか?
しかし、経済が何のために大事なのでしょうか?被災地のためですか?自分たちの家族のためですか?お金のためですか?食べ物を食べるためですか?

きっと、この疑問を呈した私に対して、ほぼ全ての人は愚か者だと断罪するでしょう。しかし、私は全ての人が否と言えども私はこれらの事に対して疑問を投げかける。

恐らく、これらの疑問に親切に答える人が居るならば、全てのためと言うでしょう。それはきっと、総合して言うならば、幸福のためとも考えられるでしょう。

それでは、日本人の考える幸福とは何でしょうか?

仕事が順調。家族が元気である事。食に困らない何不自由のない生活などだろう。

だが、その幸福観には些か、矛盾がある。皆が、その幸福に向かって進んでいってもそれが出来るのは全ての人ではない。一部の人がその幸福感を抱いたころに、隣人は血を流している可能性のある社会に我々は住んでいる。多くの人に共有されている幸福感は虚構に過ぎないのだ。今の我々の従っている資本主義システムでは誰かが裕福になれば、誰かが裕福ではなくなる。裕福さ、お金、それらを基準に幸福を考えるならば我々は、本質的に何時までも幸福になれる筈は無いのだ。

今、この日本の危機にあって、当然株価は下がる。当然だ、日本の投資家だって海外で災害や事件があれば、それに伴って売ったり、買ったりする訳だ。そんな損得や数字の上げ下げはお互い様である。それがマネーゲームだ。そんな事に一喜一憂してみても失った物は何も帰ってこないのだ。

失った物はまた作れば良いし、日本にはすばらしい技術力も頭脳もある訳だ。物質的復興は時間はかかるがなされると思う。だが、日本は何を目的に進んでゆくのか、何に価値を持つのかを明らかにしてゆかねば、金にまみれた腐食した国でしかない。

目的や価値は個人一人一人に立返り考えるべき問題である。今の腐った政治家を選んだ事。或は腐った政治家しか居ない今の現状を作ったのは我々国民一人一人の責任である。あまりにも金銭欲ばかりに目が眩み行動した結果が今の低レベルな状態である。今この国には理想、理念が必要だ。

理想、理念の崇高な次元な話に至る前にまず、日本人には人間の復興が必要に思う。はっきり言って現状は人間ではないと思う。家畜である。しかも、ベルトコンベアに乗った欲深い家畜である。


何のために生きるのか深く考えず、小、中、高、大学と流れるままに学校へ行く。そして、それ社会人だ。就職しろ!と会社へと入る。会社へ入るなり、会社のルールを徹底的に頭へ叩き込まれ洗脳される。そして、結婚をして、家族を作り、たまの休日に旅行へ行ったり、ゴルフをしたり、モルモットみたいに決まった所をランニングする。こんな事をして年を取り、仕事から引退し、死んでゆく。こんな道筋があり、それに乗る大多数の人が居る。そして、気づかないで、そのレールに乗る人も居る。また、人にそれを押し付けられてレールに乗る人が居る。

40歳までの引きこもりが100万人規模で居る事が示唆れている。かなりの人数である。あまり報道されないことだが、大旨事実であるらしい。社会にとって、この引きこもりは社会秩序を乱す者として恐怖の対象としてみられている。だから報道もされないし、それに家から出てこないので、ある意味では居ないも同然である。ただ事件が起きたりすると、引っ張りだされる存在である。
恐怖の対象として見られている引きこもりだが、引きこもりから見れば、そうでない人が怖くて仕方が無い。引きこもりの要因としてはレールに順応出来なかった事が大きい。そして、レールを踏み外した者に対して社会が受け入れない。そして、そこから出られなくなる。そして、家族はなるべく他者に知られたくなく存在を隠す。そして、社会から抹殺される。

こんな事が起こるのは、生き方のマニュアルが有るからだ。そして、そのマニュアルに縛られすぎている国民が日本人である。本来、生きる事にマニュアルなど有る筈は無い。例えば、私が噺家になると言えば、来るアドバイスと言えば弟子入りして何年云々と知識を伝えてくれるだろうが、噺家になるのにはそれが一番近道かも知れないが、それだけではない。あまりにも簡単な過ごし方ばかりに注目し過ぎだ。その人がその生き方を選んだならばその選んだ道がより充実しているにも拘らず、そんな事は大変だからとか、親が悲しむとか色々な事を言って自分の仲間を増やして安心しようとしたり、諦めさせようと足を引っ張ろうとするのである。こんな事何の意味も無い事に気付くべきだ。このような大きな震災が起きたとき、マニュアルが役に立つと思うのか?人間も人生も自然の一部である事を知らなければならない。不確定な要素に満ちあふれており、人生は自ら切り開くものである。

社会や会社で上手く、当たり障り無く生きてゆく術。そんな小手先な事ばかりである。本質的に生きる事は何か問うてはどうだろうか?小手先で生きてみても、人間としての理想であるとか、理念が私たちの心の底から体現したモノとして実感出来る訳も無いし、本当に生きてみないと本当にこの国に何が必要なのか?それが何時までも分からない。何時までも海外から輸入された国家観、憲法、民主主義では私たち日本人に根付いた者にならない。私たち自身から創出された国家観、憲法、民主主義でなければ、この国は皮は良いが中身は腐った国でしかなくなってしまう。今、この震災から復興の時にこれらの事も試されているのではないか、私はそう思う。

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