今回の地震でボランティア活動するまで、こんなに長期間、東北に居た事はありませんでした。
辛い冬を越えた東北はこんなにも美しい所であったのか、其れは新たな発見でした。桜、菜の花、そして冬の辛い名残で雪化粧した山脈。東北の春は一気に解放され、壮大な光景を生み出しています。山には広葉樹林が多く其れが春の到来をより強調しています。
自然が春を謳歌している東北地方だが、三陸沖を海沿いに車を走らせると、二ヶ月経った今でも津波による悲劇、生々しい傷跡が目に飛び込んでくるのだ。
自然が淡い新緑や華やいだ花々で彩られている中、ヘドロに塗れた瓦礫の山々がリアス式の複雑な地形に沿って山積している。華やかな彩りの中にある瓦礫がコントラストを生み出しており、より悲惨さを感じるのである。
その場所に留まろうとする人たちは今でもなお、日夜、ヘドロから自分の生活を取り戻そうと苦闘しているのだ。
岩手県釜石市の箱崎半島にある一部の漁村では、一軒の老夫婦しか残らなかった。その家は入江の一番奥に位置していた。それでも津波の猛威は家の一階部分の家財道具を一切合切さらっていってしまった。
その老夫婦はしばらくの間、避難所で生活した後、また自分の家に戻ってきた。
彼らは、失意に満ちていた。老夫婦の老男は、
「家が無くなってしまっていたら、諦めもつくが、立派に立っているから、ここで生きてく事に決めた。だけど、息子夫婦も孫も津波に持っていかれてしまった。ワシら年寄りしかいないし、他の村の人は全部無くなった。これから村の復興などは望んでも居ない。ただ、生活を出来る様になるのを望むだけだ。後は、どうでもいい。」
そして、「水道、ガス、電気そんなもの無くても生活出来る。モノもまた作ったり、買ったりしたらいい。ワシらはそんなものの無い時代に生まれたから。そんな不自由は大丈夫だ。だけど、この目障りな瓦礫から解放されたい。そして、二度と命は戻らない事、其れが何よりも悲しい。」 そう言いながら老男は、曲がった腰を引きずりながら自分で決めた瓦礫の集積所へ、何処の誰のモノか分からない便器の便座を放り投げた。
実際に、直接的に被害を受けていない者が被災者に対する時や或は、話をする時、私はなんと声をかけたら良いか分からなく、頭が真っ白になってしまうときがある。被災者の体験が壮絶であればあるほど、励ましの言葉など滑稽過ぎてしまうのだ。いくら、関係のない者が形式的な励ましの言葉を掛けても意味は無い。ただ、私には話を聞いて相づちを打ち、被災者が語りたがっている体験、想いに耳を傾ける事しか出来ないのだ。
時として、被災者の語る言葉に耳を傾けていると、突如に被災者が今まで塞き止めていた辛い事や気持ちが、たがが外れて、吹き出すときがある。泣き崩れながら、体験を話してくれる。この時、決して話を止めてはいけない。全てを聞いてあげ、受け止める。すると、「兄ちゃんありがとう。何か気持ちがすっきりしたよ。」と大体の人はそう言う。何も私自身はしていない。たけどそれだけでいいと思った。
老夫婦に面したときも私に出来る事と言えば、話を聞く事しか出来なかった。津波が、信頼していた防波堤を越えてきた時の恐怖、遺体安置所で見た息子、孫の姿、誰の者とも知れない腕が転がっていた事。全てに絶望した事。ただただ、聞く事しか出来ない。
たが、人間というのは不思議なもので、辛い話ばかりでは続かない。
話は何時の間にか三陸沖の漁場の豊かさ、自分の村の魅力などに話が変わった。そして、漁師としての生き方を話している時には老男の顔に浮かんでいた失意が幾らばかりか、薄らいでいる様に見えた。
その後、老男と瓦礫の中から一緒に拾い上げた釣り竿を手に釣りをしにいった。この状況下で自分の飯を釣り上げようとする老男の姿には漁師のプライドが見えた。
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