由々しき問題だ。読みたい本が無い。(とある書店にて。)
○○億円の稼ぎ方とか、節約術、○○代にしておくべきこと、超訳ニーチェ、超訳ブッダとか何何入門ばかりである。この国の国民の頭脳はどうした?と、書籍の名前を見ただけではそう思ってしまうほどの、お粗末な状況だ。だが、国民の問題ではなく、恐らく多くの書店、出版社が相当、読者をなめているのだろう。かなり、規模の大きな書店にでもいかない限り、ろくな本に出会わない。
発行部数は増え続けているが、購買数は減り続けている出版業界は、このままの価値のない書籍を出し続ければ間違いなく立ち往生する所が出てくるだろう。まぁ逆に言えば、淘汰されより良い読書環境が作られる可能性も無くもないが‥‥。
わざわざ、この時代に本を買い、読書し得ようとする体験に何を人は期待するのだろうか?多くの知識、情報が半自動的に流れている、この時代に不便な読書をする人が求めるものとはなんだろうか?その事を出版社は考えて本を出したらどうだろうか?
読書は受動的ではなく、能動的である。
少なくとも、私は固い者を噛みたいのだ。固いものを噛んで柔らかくして飲み込む。つまり、自分で解釈して理解する事をしたい。今の書物はまるで、流動食のようで既に噛み砕かれドロドロに成っていて何処にも自分で解釈するところがないのだ。自由も無い。難しいという固いモノを噛み砕き、固さを見ながら反芻し、得られる理解を僕は読書体験に求める。
そこで得られる理解は他読者と違う解釈、理解であっても良い。噛み方は人それぞれだ。ゆっくり噛み砕き作者の意図を深く理解する人もいるし、早食いでよく噛まないで消化不良を起こす人も居る。解釈と理解が人により異なる事、其れが自然だ。
良い例とは言えないがヒットラーがニーチェの思想に触れ、選民思想へ走り出し、第二次世界大戦へと突入し、アウシュヴィッツと言う語に象徴される悲惨な歴史を残した。だが、皆がニーチェを読み、選民思想だとは思わない。実際に僕には思えない。持ち出した例はイマイチだが、其れは読む事で得られる事に違い、或は広がりがあると言う証明ではないか。とくに簡単に読めないものには。
だが、how to 本やら、超訳にそんな本は解釈の多様性の可能性はほぼ皆無だ。一つに集約するものであり、広がりが無いのだ。読書好きには今の書店に行くと目を塞ぎたくなる。そんな現状を嘆く人は多いと思う。
まぁ、兎に角、流動食はご免だ。歯を使いたいのだ。
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