2011/06/07
被災地にて[6]
この辛い現実を乗り越えて、何時か新たな歩みを進んで欲しい。其れは皆、同意の意見だと思う。
だけれども、私は、同時にこの現実を忘れず、見続けなければならないとも思うのである。それは、歩みがただの忘却になってはいけないと考えるからだ。
被災された辛い記憶が完全に消えるとは思えないが、でも歩みが、忘却を意味し、忘却と時間の優しさを享受して進む事だとしたら、その記憶の礎となるのは、実は被災者以外でなければならない。何故ならば、被災者達は歩むべきなのだから。
被災者以外とは誰なのか?それでは、私たちでやるのか?誰なのか?
それは、やはり政治であると思う。
だが、現在その役割を担える政治はこの日本には存在しない。
民主主義である限り、政治家が愚かであるのは国民が愚かである事の証明である。結局まずは、私たちが変わらなければ何も変わらない事を意味する。
私たちが未来と言う事に基づいた投票活動をしなければならない。こんなことを言うと偽善者めと言われるかもしれないが。自分の会社に有利なとか、公共事業の関係とか、利害の関係の目先の安っぽい未来ではなく、本当の未来について考えるのだ。政治家は自分が当選がしたいから、国民が明確な意志があるのならば、それに従う筈である。首相にリーダーシップが無いと罵倒する人が多いが、それは国民がハッキリした意見の無い事の裏返しではないか?と思う。少なからず、政治家は私たちの代表なのだから。
最近、風化させてはいけないと言う事から、記念碑や被災施設の保存に乗り出そうと、被災地域中心に話がされている。
私は、三陸を車で走っていて、或は、街を歩いていると、あらゆる所で明治、昭和の津波の石碑を見た。三陸地方へ来る前、報道で宮古の石碑が紹介されていた。「ここより、下へ家を建てるな。」との文言が記されているもので、先人が残した未来への伝言である。報道はまるで珍しいものを紹介する伝え方だったので、三陸へ来て石碑や津波の文言が書いてあるものが至る所にあり、正直、驚きました。
記念碑や被災施設の保存はある意味では重要だ。しかし、風化させてはいけないという事を先人から学ぶのであれば、記念碑の類いがほぼ役に立たず、不十分である事は自明である。であるならば、私たちは新たな記憶の礎を如何に施すのかを政治に求めねばならない。
私たちが人間の命に重きを置いて、未来を考えた場合の話ではあるが‥‥…。
ラベル:
被災地
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