2011/06/03

隠蔽は知らず知らずに自ら。

「パリで数週間に五千名の死亡者を出したインフルエンザの大流行も、さして民衆の想像力を動かさなかった。事実、こういう真の大惨事も、何か人の目を引く心象によらずに、もっぱら毎週報告される統計によって現されたからである。同じ日に、広場で、例えばエッフェル塔からの墜落と言うような、明らかに人の目を引く事件のために、五千名の代わりにわずか五百名の死亡者を出す椿事が出来したと仮定すれば、これは、想像力に甚大な印象を与えたにちがいないのだ。‥‥‥‥・中略‥‥‥‥従って、民衆の想像力を動かすのは、事実そのものではなくて、その事実の現れ方なのである。」(群衆心理/ギュスターヴ・ル・ボン著/講談社学術文庫/p86より抜粋)


私たちが信じ込むものは、実は、事実よりもその現れ方でなのである。それは、マスコミで言うなれば、事実の悲惨さよりも、映像に残っているかどうかによって心に刻まれると言う事だ。

事実の当事者でない限り、多くの事実は情報として伝達される。世界では、悲惨な事が無数にあり、其れが日々、情報として我々の元に届いている。だが、それら事実は間接的に行き過ぎ、ほとんどリアリティすら感じずに多くの事は忘却されていく。

民衆を動かすのはインパクトだ。それに華を添えるのは映像だ。そして何より派手で、過激で、悲壮である事がインパクトだ。事実とは事実の悲惨さではない。如何に悲惨な状態が目に見えてくるか、現れてくるか其れが問題なのだ。

9.11での死者は2749人、現在、イラク戦争での死者状況は10万1千人代であり、そして、まだ増え続けている。事実として悲惨なのはどちらなのか?当然、悲惨なのはイラクだ。

自分の胸に手を当てて、気持ちを素直に言うならば、どこかで、イラクの悲惨さにはリアリティを感じないのだ。それよりもやはり、9.11の方が映像により劇的なまでの悲壮が何時までも残っており、実際にその事が有ったのであると、事実を直接的に接していない人にとって事実を認識ができるのである。イラクでの殺戮は殺戮であるのにも関わらず、私たちには統計と数でしか伝えられず、心には刻まれないのだ。

僕だけが愚かであると、愚かであるからリアリィティを感じていない。そう考える向きも出来るかもしれない。だが、事実のリアリティの不在は誰にも起こりうる事であり、現に現在、私たちは其れに遭遇している。

遭遇している事、其れは言うまでもなく、原発の問題だ。

日々、放射性物質は降り続けている。この事実を私たちは、この見えない恐怖に何れだけのリアリティを感じているだろうか?漠とした恐怖を感じながらもリアリティのない実態。毎日、報告される地域ごとの放射線量値。もうまるで、天気予報かの様な状態で感覚が麻痺してはきませんか?

人間の五感には感知する事が出来ないこの物質は、人間に取って一番危険なものだ。それは現れてこなければ事実として認める事が出来ない人間に取って悲惨でありながらも忘却されていく皮肉を抱えている。
それに加えて、未来と言う事も人間にとってリアリィティを感じない事だ。だから、未来に向けての行動と言うのは出遅れるし、意識してはいても後回しにしてしまうものだ。

子供達は未来の象徴である。そして、この先何十年も生きていかなければならない。これら未来にたいして、私たちは責任ある行動をしているだろうか?

どうだろうか、街へ出れば、原発事故から直近ではあんなにもマスクをしている人で、溢れていたのに誰がしているだろうか、雨の日には子供達が傘もささずに駈けって行く。むしろこれらは日常の光景だった。体調が良ければマスクはしないし、子供は雨に傘をささない。だが、その日常達は、今は違う。見えなくとも確実に毒が漂っているのだ。私たちは政府、東電の言葉を信じてしまってよいのだろうか。

この緊張感の無さ、国民の健康を守るより、国民のパニックを阻止し、秩序を守ろうとする政府。私たちは、それら言明、妄言を黙認し、東電の事実を小出しにする記者会見の罠に私たちは慣れてしまった。これら茶番劇はまるで私たちとは関係ない所で行なわれているかのような感覚で見てしまう。もはや、怒りすら感じず。本当に知りたいことに対して諦めかけている。そして、原発を忘れ日常に戻る。

事実は隠蔽されているのか、或は自ら忘却し、隠蔽を結果的に容認しているのか。それは、どちらにしても一緒である。私たちが請求し続けない限り事実が明らかにならないのであるならば、其れを諦めたときは私たちは未来の世代達に対して、事実を隠蔽した言うことには変わりはないのだから。




「100000年後の安全」と言う映画が全国の一部映画館で上映されています。原発の事実を忘れないためにも見たい映画です。

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